読んでほしい人
▷男にこびない女性が好き
▷波瀾万丈な人生
▷強い女性になりたい
3歳で実親と別れ 敵が育ての親に
1592年と1597年 文禄の役と慶長の役
二度に渡る朝鮮振興で総大将 小西行長は戦火の中
親を失い泣き噦りながら
さまよう朝鮮貴族の3~4歳の幼女を保護
この子がジュリアなのです。
まさにスタートから人と違う
波乱万丈さがめちゃめちゃ出てますね。
哀れんだ小西行長は自領の宇土(うと)
現在の熊本県宇土市に送ります。
小西行長は薬種問屋 小西隆佐の次男
両親も熱心なキリシタンでした。
そして昇進として活躍し秀吉に認められ武将として闘ってました。
小西一族は敬虔なキリシタンで、
妻ジェスタは温かくジュリアを受け入れ養育してくれました。
※おたあは本名ではなく、女性尊称 大姉の意味
良い夫婦に引き取られて良かったですね。
このまま何事も無く平穏な人生になるといいなぁ…。
1600年 小西行長は関ヶ原で西軍に加わり
京の六条河原で斬首
うわぁ、なんということだ…!
まさかのここで殺されるなんて!実親とも別れてるのに、ここで育ての親とも別れるなんて|
敵 徳川家康を拒否する女に
おたあは徳川家康に引き取られる
伏見城の侍女になる。
行事作法がしっかりしてたおたあジュリア
美しかったので家康は側室にしたかったけど、おたあはこれを拒否
たしかに自分の育て親を殺した相手の側室なんて、心境ムリですよね
家康が権力者で、どんなに言ってもなびかなかった。
家康はおたあジュリアを罰せず重職につがせる
心が広い家康なのでしょうか。
大奥には信仰に基づく厳しい倫理観と謙虚な生活態度のおたあジュリアが必要と判断する。たしかに大奥だと規律とか大変そうだしね。
イエズス会とキリスト教とジュリア
伏見にいた時は熱心に教会にくるおたあを神父たちは「荊の中の薔薇」と賞賛
イエズス会管区長秘書 ジラン神父はこれをローマに報告
1611年 駿府を訪れたスペイン探検隊ビスカイノ
おたあジュリアだけが普通の日本人女性が喜ぶガラスの玩具に興味を示さず
コンタツ(数珠)、聖書を欲しがり
「彼女こそ本物のキリシタン」のして報告
たしかにこれだけ大変な辛い思いをしてたら、信仰なくして生きるのは辛いからなのかな。
慶長17年 家康はキリスト教に寛容でしたが禁止にします。
家康はネチネチ系なのでしょうか
何度も「キリシタンを捨てれば咎めない。そうでないなら遠島に流すぞ」と言います。
おたあジュリアは家康の要求を拒否
信徒はとらえられて追放
おたあは伊豆大島へ流刑される
幕府は一か月でおたあジュリアを新島へ移し、本土から更に遠い神津島(こうがしま)に向かわせます。おたあジュリアは、23〜24歳の若さから40年もその島で過ごすことに。そして生涯をそこで終えます。
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おたあジュリアの生き方から学ぶ
親を外国から侵略で失い、その敵国の武将に育てられる3歳。今の日本で生きていてそんなバックボーンで育った人はそんないない。というか、私の周りで見かけないです。私が3〜4歳の頃はほぼ記憶がありません。普通の3歳児でした。
しかもおたあジュリアから見たら、外国で育ち、朝鮮半島の文化とは異なる、自分の国の文化やアイデンティティを知らぬまま異国で育ちます。
そしてとうとう育ての親まで殺されるのです。豊臣秀吉や徳川家康の事業だけ見れば、すごい実績をもつ天下人たちです。淀君もそうですが、その時代の女性たちから見たらそんな天下人の影響を受け、人生に大きな深爪を残すことになるのです。
戦国時代はたしかに沢山の武将が出てきて面白いです。しかし裏では自分の人生がその天下人により翻弄される女性も多くいて、女性そのものが戦利品となったり、側室を拒めば命さえ危ない時代があったのも然りです。
おたあジュリアがどれだけ骨太な生き方で凛としてたかは計り知れません。
ではでは
ちゃおちゃお
参考文献:日本史の中からの女性逸話辞典/中江克己/東京堂出版
ヒロインの日本史 時代を彩った女性100人/梓沢要/ベスト新書