どうもそんべんです(^ω^)
少し前まで今もかな?雑誌を見ると
ハーフモデルの勢いが止まらなかったですね!
ローラ、トリンドル玲奈、ダレノガレ朋美etc
女性の私から見ても可愛い、綺麗(^▽^)
ちなみに私はフランキーさんという
画家がすごく好きです(//∇//)\
アメリカと日本の方なんですが、わたしは彼女の作品が好きで、Instagramで拝見してます!
いつか個展見に行きたいなぁ(^ω^)
ではそんな中で日本とドイツのハーフとして生まれ、女医になった方をご存知でしょうか?
第 24人目 楠本イネ
江戸時代 シーボルトの娘として誕生
1827年 長崎 出島 オランダ商館内の外科病室にて誕生
父 シーボルト 母 おたき
シーボルトはイネが生まれる4年前
ドイツ人でしたがオランダ商館の医官としてオランダ政府に日本へ派遣されます
シーボルトはかなり優秀で
親族も多くが医者
この度、日本の動植物、地理、習慣、歴史、言語、食物や産業など
情報手に入れるミッションあり
でもかなり制限された生活でしたが、彼だけは週に一度長崎の街にでる許可が出ます。
顔が梅干し一気に15こ食べたような表情ですね!
そんな中でであった 遊女のたき
当時外国人との結婚はタブー
しかし契約結婚という体で結婚します
しかしイネが生まれると5年の任期なので、シーボルトは帰国しなければなりません。
イネ、オタキ、ニホンニモドルカラネー!
と絶叫したに違いありません!
しかし彼の乗ってた船が打ち上げられ、持ち出し禁止の地図とか刀とかが見つかり、日本永久追放の刑に
え!そんな!( Д ) ⊙ ⊙
禁止品渡した日本人は流刑や投獄
信頼してた弟子 二宮敬作に家族託す!
ニホンノミンナ、マジゴメーン!
と多分絶叫しながら、かなり傷つきながら戻っていったシーボルト。
でも世の中ってそう温かくなく、そのうちシーボルトのこともちょっとずつ忘れ、容姿が異なるイネのことを変な目で見てきます
ハーフへのいじめと寺子屋
母おたきの再婚そして出産
- 妹の方が家事を割とやってくれる
- 友達は針仕事や子守、家事に忙しい
だんだん彼女は居場所がなくなる。
そして父シーボルトへの憧れを胸に、学問への道にめざめ、寺子屋に行きたくなります。
学びたい(((o(゚▽゚)o)))
母は寺子屋大反対
男の子からは
「赤毛、異人の子」
「オランダいき(オランダ人相手の遊女)、大女」
とイジメられます
男の子と喧嘩に…そして勝つ
12歳の時二宮敬作に助けを求め、
伊予行きを決めて一緒に行くことに
二宮敬作は町医者として診療、そして薬草も育ててました。
イネは包帯を取り替え
女性らしい細やかな対応でみんなから信頼を得ていきます( ´ ▽ ` )
しかしここで蛮社の獄という事件が発生
渡辺崋山は自殺、高野長英など終身刑に。
心配した母 おたきは長崎に彼女を連れ戻します。
戻って来なさい!危ないでしょ!
でもイネにとって出鼻くじかれた感じです
この頃髪も短くし、男装しだす。
そして二宮敬作から備前(岡山)
産科医 石井宗謙をすすめられます。そして石井の元へ
- 豪華な建物
- 書生が20人
今までと違ってゴージャス!
けどこの石井氏は
- 妻は国元にいる
- 身の回りはイネが世話する
- いきなりイネという下の名前で呼び
- 女の格好しろっていい出す
そしてイネは石井から暴力を受けて、身籠ります。
しかし子どもを堕ろさず
産科医としてこの経験は役立つとして
誰の手も借りず一人で女の子を出産
石井の子では無い
ただただ私の子供ということで名前はただ
大村益次郎との出会い恋愛
6年目にして長崎に戻り、朱本産科開業
朱本はシーボルトからきてる苗字です
実は備前にいた時、村田蔵六(のちの大村益次郎)という人に出会います。
この人も有能な人材ですよね!
彼は適塾で塾頭しててイネをだんだん信頼するように^o^
そんな蔵六が参勤交代で江戸に行くことに。
そして一緒に行き、横浜で産科開業
実は医学の基礎を一から学び直すためにイネは同行したんですが、
蔵六は藩の仕事で手一杯 軍艦作りとか。
医学どころではなくなってしまいます。
そのため正式な医学の教授 オランダ ポンペ先生を招きます。
このポンペ先生に学びに3年ぶりの長崎へ
ポンペ先生ー!
この当時
1853年 日本とオランダ間で
日蘭修好通商条約結びます。
シーボルトの追放令を解除
そして32歳のイネ、母おたき、娘ただ、二宮敬作に感動の再開
メチャカンドー!ミンナゲンキダッター?
とシーボルトは言ったに違いありません。
シーボルトは日本追放後
再婚して5人の子に恵まれます。
その一人、アレキサンドラ
その後40年に渡り、彼は通訳など日本で働く。
再会した年にホッとしたのか、大役を終えたからなのか二宮敬作は死去58歳
彼女が39歳の時、シーボルトはドイツミュンヘン70歳で死去
朱本という苗字から母方の楠本にかえ
江戸から明治に移行するにあたり
築地で産科医院を開く
結構あちこちで医院開いてるなぁ(≧∀≦)
福沢諭吉の紹介で明治天皇第一子の出産に招かれます
50歳を超えたおいねは医者として限界を感じ、未亡人となったただ(改名して高子)に
3人の孫の世話をするように。
そしていね77歳で死去
関連書籍☆彡
楠本イネの生き方から学ぶ
この時代は国際結婚なんて言葉もまだ浸透していないし、容姿も均一的だったと思います。なので西洋的な容姿をもつ楠本イネさんは周りや社会が受け入れるにはまだまだ土壌が整っていないため、目立つ存在だったと思います。
世が世なら、彼女ももてはやされた筈です。
今日でさえ、ハーフモデルという言葉が浮き立つように日本の社会というのは、よくも悪くも島国なので外界から来るものに関してかなり大げさに捉えて、他からのものや人を取り立てる考え方が歴史的に根付いてるのかもしれません。
みなさんは外見で判断されることはありませんか?また判断してませんか?
例えば外国から来た人など、無意識で分けて判断してはいないでしょうか?
国際化やグローバル化という言葉が巷で浸透し当たり前によく聞きます。
でも私たちの祖先も元を辿れば、大陸から来た人と日本列島の住民の混血が私たちを作ったとされてるそうです。
日本人のルーツはたくさんあるので、この一言では集約出来ません。また違う記事でピックアップしたいと思います。いつかはハーフという概念自体も変わるかもしれません。
まだまだ外見で判断差別されるような時代に彼女は自分の境遇を受け止め、力強く生き、日本の女医基盤を作った女性でただただ尊敬しか出てこないですね。
ではでは
ちゃおちゃお🐾
参考文献:医者になりたい夢をかなえた四人の女性/島田和子作,北住ユキ絵