沢田美喜 華麗なる家系図と戦後の混血児を守ったドラマ

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どーもそんべんです!

読んでほしい人
▷家柄がいいけどお嬢様って柄じゃない人
▷男子と仲が良いタイプの女子
▷可哀相な人を放っておけない

沢田美喜

だ、誰だ?
むしろ知っている人のほうが少ないと思われます…。

では彼女がどんな女性だったのか見てみましょう。

1901年9月19日 岩崎家長女として誕生
お兄ちゃんが何人かいます。
そしてこの岩崎家は超大金持ち

みなさんご存じ、町のどこかで見るマーク

三菱!!!!

三菱財閥を一気に作り上げたあの岩崎彌太郎。

おじいちゃんが岩崎彌太郎なんですね!
彌太郎といえば台湾出兵、西南戦争の際に海運で巨万の富を手にした成功者。
たった4年で成し遂げるという…。
日本のトップに立つような家に生まれてくるんですね。

母や母方のおばあちゃんはとても美人なんですが、
本人沢田美喜はしもぶくれの顔立ちで生まれてくるんですね。

三菱財閥のお嬢様と外交官の妻

沢田美喜の家には使用人が50人いるような豪勢な邸宅。
現在は都立「旧岩崎邸庭園」となっております。

数年前に私も行って参りました!
ふらふらと惹かれるように入っていきました。
中はここは日本の邸宅なのか見間違えるほどにのおしゃれな洋館でした。

沢田美喜は贅沢な暮らしをしてたんじゃないの?
と思われますがそんなことはなく、
岩崎家は質素。とにかく質素が大切なんですね。
着物も使い回し、お兄ちゃんの着物が沢田美喜に回ってきました。

1907年 6歳 現在はお茶の水と呼ばれる女子高等師範学校付属幼稚園へ
沢田美喜のつくった劇をベースにお芝居をして楽しく過ごした
幼少期だったんですよね。

1916年 15歳学校中退
兄に英語を教えに家に津田梅子が教えに来てました。
そう教科書に出てくる8歳で渡米して英語をマスターし津田塾大学をつくった女性です!
そんな神レベルの人から英語を教えられ、沢田美喜とも交流がありました。

別荘に泊まった時にたまたま聞いたのをきっかけに
キリスト教に興味がわきます。どんどんはまり、それが原因で中退に。

※ちなみに岩崎家はかなり真言宗を信仰しておりました…。
そしてお家でめちゃ厳しい家庭教師をつけて学ぶことになります。

そろそろお年頃の沢田美喜。
でもいわゆるお嬢様ってタイプの女の子ではなくて、
おままごとしてるより、兄達と楽しく遊んでるほうが生き生きするタイプ。
なのでもちろん結婚とか見合いとか全然興味わかない。

親が頑張ってお見合いのセッティングするのに、
感じも良さそうな相手に、沢田美紀はシュークリームのクリームを口から吹き出す。

拒否がお笑い芸人みたいな返しです。

家族や親せきもこれはヤバいと思い、外国に興味のあった沢田美喜に
やたら外国生活という単語をだして結婚にもっていかそうとするんですね。

そして春に見合い、親戚や家族をいれて花婿候補と顔合わせ
これを3回…。
そして4回目に会ったときはもう結婚式でした。

え?もうなんか面接感覚…。

1923年22歳
フランス語が堪能な外交官と結婚します!
ちなみにクリスチャン!
外交官の奥さんってだけで色々パーティに参加しなきゃならなくて
その際に出るドレスのことを考えると…。
お給料では追いつかないし…。
と沢田美喜の旦那、沢田廉三はやはり資産家令嬢でなければ
やっていけないと感じてました。

そして夫の転任に同行してアルゼンチンへ
ちなみに航海始めはすでにお腹にちいさな命が宿ってます…。
懐妊したことを言えば祖母に海外生活を止められます。沢田美喜は黙ってGO☆

アルゼンチンの公用語はフランス語ではありません、スペイン語。
スペイン語なまりにのフランス語になるからという理由で旦那の沢田廉三はスペイン語を話そうとしない…。

え?待って待って、なんだその理由!

沢田美喜は妊娠しつつ、辞書を片手に片言で外国語の単語をいう新婚生活がスタート
初出産はブエノスアイレス
しかも難産
でもちゃんと赤ちゃん生まれます!
日本一のお嬢様の結婚にしては試練がだいぶある生活を過ごします。

そこから外国生活が続きます。
アルゼンチン、ロンドン、パリ、ニューヨーク…。
外国で子どもが生まれます…。

でも外交官夫人なので豪華なパーティに接待など
人に会うことが多いんですね。
しかし社交や行事や宴会に意味を見いだせなくなり、
そして日本人同士のコミュニティー内も嫌気がさしてきます。

無償の奉仕活動
成功した人が貧困で困る人たちの援助
黒い肌を持つ人たちへの差別

長い外国生活で感じるんですね

1936年 35歳日本へ帰国

1945年 44歳終戦
この終戦により戦後、三菱財閥は解体
そして沢田美喜の自宅にCICと呼ばれる進駐軍の情報部が入り占領
しかもただ占領するだけならまだしも、毎日どんちゃん騒ぎしたり
無駄食いで節操のない態度で家で過ごします。

黒い肌と白い心 エリザベス・サンダース・ホーム創設

1947年46歳
列車で死んでいる混血児を発見、そこで沢田美喜がその子の母と間違えられます。

ここで沢田美喜は混血児を救おうと決意します。
エリザベス・サンダース・ホームという孤児院を作ることに

アメリカからも日本からも必要とされず、差別されるハーフ。
いらないから、銅像前に、駅前に、トンネルに赤ちゃんを捨てていく
この時、外国人と関係をもったような女性は「パンパン」と呼ばれ、差別されました。

創設間もないころはそういった母は25歳以上で空襲を受けた人で着の身着のままでした。
物資を兵士から受けて、そのやさしさに心を一時でも許し、身籠ってしまう。
一緒になると約束しても、結婚しない…。
ある意味、差別されて社会から厳しい制裁をうける運命を背負った混血児。

可愛い子は人身売買で売り飛ばされてました。

政府がもっと被災した女性たちに最低限もっと衣服、食べ物、仕事など支援したら、辛い思いをする女性も子供も少なかったはず。

沢田美喜は戦後の処理、
戦のあとの闘いを始めるんですね。

1952年 51歳
進駐軍の占領終わる
5年間で247人の子どもが過ごし、うち68年は日本在住のアメリカ人夫婦の養子の縁組を組む子どもが。
でもその手続きが本当に大変で、その手続きが終わったと思ってたら転任が決まり、結局はその子どもを孤児院に置いていく人も。

アメリカで初講演
だけど聴衆が沢田美喜に罵声を浴びせる…。
しかもこのエリザベス・サンダース・ホームはGHQからもアメリカからも
反対されて、支援を阻止されるですね。

たしかにアメリカとしても米兵が残した混血児は軍としても、考えたくないことなんですよ。

最初は沢田美喜のポケットマネーで回していた孤児院。
エリザベス・サンダース・ホームは運営費困ります。
その時沢田美喜は大切な貴重な岩崎家の家財道具を売ります。
茶室もこわしてその木を薪にする。
躊躇なく孤児院のためにお金を回します。

1953年 52歳エリザベス・サンダース・ホームは社会福祉法人に正式認定
補助金うけます!
良かった!いくら日本一のお嬢様とはいえ、資金繰りと赤字に困ってました

そして赤字補てんのためにアメリカ公演をします。
そのあとも
孤児院は貧相なイメージがあるかもしれません。
しかしこのエリザベス・サンダース・ホームはそれを全く感じさせない
戦後なのにいいものが食べれる!
栄養士さんもいたんですね
でも生活信条は岩崎家スタイル
そしてこのホームは18歳になれば強制的に追い出されます
なのでここではとにかく厳しく子供の独立心を育てるんですよね。

混血児は社会に出たら差別され、やたら人から注目を浴びる機会が多く
厳しい世の中です。
なので厳しくしないと、今後の人生にかかわってくるんですね。

残りの人生を
このエリザベス・サンダース・ホームのため
アメリカ講演を再度行い
更に精力的に混血児のために尽力します。

1980年 79歳スペイン旅行中 マヨルカ島にて急性肺炎と心不全の併発で死去

関連書籍☆彡

沢田美喜の生き方から学ぶ

お嬢様の中のお嬢様、日本のヒエラルキートップに君臨する家柄に生まれた
沢田美喜。家族の言うとおりにして、お嬢様らしくしてれば、外交官婦人で温かい場所で一生安泰を約束された人生が待ってました。でも沢田美喜の場合、大人しくできない子でした。沢田美喜の祖父は岩崎彌太郎、あの三菱をつくった明治の豪傑です。そんな祖父の遺伝子がうずいて仕方なかったのか、豪傑さは彌太郎ゆずりで「女彌太郎」と呼ばれます。
この孤児の家も逆に言えば、岩崎家のスケールほどなければ、成立しなかったと思います。個人でやるにはハードルが高すぎる。

今でこそ、ハーフモデルで美人だともてはやされますが、日本の歴史の中はそういった風潮は本当に最近出てきたものです。長くは差別されて同じ日本人として扱わないような社会です。今でもその風潮はまだぬぐい切れてないかと思います
悪い意味で島国根性で排他的なところがまだまだあるかと思います。

けどこれは沢田美喜が生きていた頃にもあてはまることで、そんな状況が変だと思ったから、岩崎家に生まれて、経験をつなぎ合わせてなしえたんだと思います。

ではでは
ちゃおちゃお

参考文献:GHQと戦った女沢田美喜/青木富貴子/新潮社