読んでほしい人
▷結婚が幸せか悩んでる
▷大奥に興味がある
▷子どもは女の人生に必須か悩む
楽宮喬子
いったい誰なんでしょうか?
幼少期に結婚 楽宮喬子
1795年生-1840年没
出身地: 京洛
身長:143cm(谷中霊園、徳川家墓所の遺体)
体形:華奢な身体つき
死因不詳
1795年(寛政7年)6/14生まれ
幼名 楽宮(さざのみや)と称する
実父 有栖川宮織仁親王(ありすがわみやおりひとしんのう)
母 関白左大臣鷹司軸平の娘 房子となってる
実母は熾仁親王の側室 常盤木(ときわぎ)
という今だとDQNネームの名前たち。
私の友達は自分の名字に飽きて(?)、プレゼントを郵送する時に自分の好きな名字に選んで送ってました笑
例: 有栖川宮沙織 ありすがわみやさおり

まだ楽宮喬子が良く物事も分からないうちに周りの大人たちは着着と事を進め、
9歳の時 徳川家との婚約が決まります!
翌年奥入り
とうとう大奥へ…

13代将軍 徳川家慶の正室 喬子(たかこ)
皇族出身の御台所となります。
ちなみに将軍の正室は将軍の身分と釣り合う家柄の女性でした。
天皇家、宮家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)、公家最高の家柄などなど
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お世継ぎ 14歳で竹千代を出産
1809年(文化6年)12月 結婚して4年後
14歳ごろ男子(竹千代)を出産
楽宮喬子の出産に戻りまして、
「お世継ぎ誕生」として大奥中を喜ばせます。
しかし翌年8月には2歳で早世
1815年 2月7日 とも姫を出産 生後20日で夭逝
さらに翌年 最玄院を出産。この子も分娩当日に死去。
5回〜6回にわたり妊娠しましたが、
見たとおり2回は流産
無事に産まれた一男二女も早逝
記録に妊娠に関しては細かくは分かりません。
なかなか子供には恵まれない方でした。
けど正室ってお世継ぎ期待されるんですよね。
なのに産まないと世間や周りはまだお世継ぎが産んでないという目で楽宮喬子を見てしまいます。
ちなみに家慶の側室は7人です!
楽宮喬子の名誉のためにも言いますが、
歴代の御台所(=正室)から生まれた将軍はただ一人、3代の家光だけです!
それくらい正室から将軍が生まれる確率って低いんですよね…
1837年(天保8年) 家慶 46歳で将軍職につきます
喬子は43歳でようやく「御台様」と呼ばれる
な、長かった…!それまで辛かったはず!
旦那 12代将軍徳川家慶とは?
では夫 家慶は何をした将軍なのか?
ちなみに家慶は教科書で2秒くらいでとばされるくらいの影の薄さ…。
倹約家の地味メン…。

1837年9月 家慶12代将軍になる
大塩平八郎の乱が起こる
1842年水野忠邦が老中になる
蛮社の獄
異国船打払やめる
1853年 浦賀にペリー来航
来てから19日後
家慶急逝
という教科書で一回聴いたことはある大事件連発してます。
むしろ将軍 家慶より水野忠邦の方が目立っちゃってます…
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話を楽宮喬子に戻して
これで安泰よ!と高笑いして今後を過ごそうとしたかは分かりませんが。
1840年 1月24日 喬子死去 享年46歳
うわー、3年しか御台様と呼ばれないなんて!
死因は不明。
法名は浄観院
※2007年 上野 寛永寺の徳川家 墓所の改修調査で体型や身長が分かるが病死か否かわからないとのこと。
楽宮喬子の生き方から学ぶ
江戸時代は今からざっと150年くらい前
日本の男性平均寿命が75歳ならばおじいちゃん二人分くらいです。
当時の大奥は知っての通り、将軍様に仕える女性たちが集まる場所です。
勿論女の熾烈な争いが想像できます。そして輿入れが今の私達には考えられないくらい早いです!9歳ってなんも分からないでしょ!と突っ込みたくなりますが。10代半ばで結婚は普通でした。なので今のアラサーはきっと中年の感覚で、現代人と比べると歳をとる感覚も早いと思います。戦後まで平均寿命が50歳前後なので合点します。
これから100歳時代迎えるとなると、人生で歳をとる感覚がまた違うし、流れる時間も違ってくると思います。楽宮喬子のように決められた結婚、そして産まなくてはいけないというプレッシャーがあり、違う人生を送りたくても送れなかった。もちろん楽宮喬子のように正室になりたくても簡単になれるわけではありません。
決まった人生だけど女性として最高の権力を手に入れるかもしれない人生。
たった150年前の女性に与えられていた人生の一つです。
ではでは
ちゃおちゃお

参考文献:大奥/新星出版社
雑学3分間知らなかった!?大奥の秘密/畑尚子/PHP
大奥の謎/山本博文/廣済堂出版
日本史有名人の身体測定/篠田達明/KADOKAWA

