あえて普通な女性の生き方?江戸の終焉動乱間際 人生の大半を結婚準備にかけた 佳人薄命の天親院

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こんにちは!そんべんです!

今までけっこう破天荒だったり、マイペースな人だったり紹介してたので、
あえて割と普通な(?)人を紹介します^ ^

第20人目 天親院

1823年生-1848年没
身長147.8cm(芝増上寺の遺体による)
死因不詳

徳川第13代将軍 家定の正室 任子(ただこ)

家定↓

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出典

関白鷹司政煕(たかつかさまさひろ)がパパです
政煕の息子 鷹司正通(たかつかさまさみち)の養女となり初名を有君と称して下向

5歳で家定と婚約
8歳で江戸城入り
18歳でようやく結婚

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結婚早い笑
テレビで幼稚園で可愛らしい園児たちに夢を聞く番組がありました
その時に可愛い女の子が
私、◯◯君のお嫁さんになる♡

と言っていました。
もしかしたら彼女は、江戸時代の感覚でものごとを考えていたのかもしれませんo(^o^)o

そんな天親院ですが容姿はどーだったのでしょうか?

彼女はうりざね顔で鼻筋が通り
大きな瞳に均整の取れた容貌
歴代将軍夫人の中でもランク上の美人
・゜゚・:.。..。.:・'(゚▽゚)’:.。. .。.:・゜゚・

しかし夫との間に子供はうまれず

1848年(嘉永元年)有君は26歳で病死病名や死因は不詳
麻疹で亡くなったとも?

佳人薄命ということなのでしょうか
法名を天親院とします

有君が没して10年後
ここから一気に激動の時代へと
徳川の世の中、つまり江戸時代は全体としておしなべて平和な時代
でも裏で財政悪化に封建体制に不満の声
たまる中での黒船来訪
(‘▽’)

黒船がただ来たから凄かったのではなく

黒船が起爆剤になり、日本と日本人の考えを大きく変えていくのです

幕府が日米修好通商条約の勅許を要請したとき、ざっくり言うと天皇の許可プリーズ(`・∀・´)

養父 政通は開国論(鎖国やめて外国と色々やってこうよ)の立場から
新幕派の公卿 九条尚忠と共に勅許を主張

説得により尊王攘夷(天皇を尊重、そして外国を倒そう)になぜか方向転換
大老 井伊直弼(その時の一番偉い、権力握ってた人)の怒りを買い

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出典
とにかく激怒しすぎて

直弼、プッチーン!超キレた!

と言ったかは分かりませんが

とにかく政通は安政の大獄に巻き込まれて辞官しました
((((;゚Д゚)))))))

1862年(文久2年)公武合体の機運にあり、養女 天親院が将軍の正室だったこともあり
政通はようやく参内を許された。

死後も父を助けた天親院でした(´˘`)♡

夫の家定は後に公家出身澄心院を娶ります、しかし早世
なので今度は武家出身 天璋院を娶ります。
つまりあの篤姫です。

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出典
https://g.co/kgs/hDqg4K

篤姫のこともいつか書きたいなぁ^o^
今だと西郷どんのドラマもあるので、毎週観れますよね(^ω^)

関連書籍☆彡

彼女の人生が享年26歳とという余りにも短すぎる人生ゆえに、彼女の人生における結婚のウエイトがとても大きく感じられます。5歳のころは、私はアニメのモノマネや友達と外で鬼ごっこしてとにかく遊びまくってました。(あれ、今もそんなに変わらない…笑)
歴史に出てくる、名を残す女性ってたしかに尖った女性だと記憶に残ります。しかし皆んなが皆んな尖った訳ではありません。家や家柄、政治の問題で自分の人生が他人に決められるのが当たり前だった世の中だったんですよね。彼女にNOといえる権利があったのかな。

普通の生活、つまらない人生だなって思うこともあるかもしれません。
逆に激しする人生やだなって思うかもしれません。

色んな意味で皆んなが皆んな奇抜に生き抜いたわけではなくて、普通に過ごした女性もいた事は確かです。

彼女がもう少し生きていたら、どんな風に大奥が、政治が、日本が変わっていたのでしょうか?



ではでは
ちゃおちゃお🐾

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参考文献:日本史有名人の身体測定/篠田達明/KADOKAWA
大奥/新星出版社