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李 方子(リバンジャ)
さてどんな女性だったんでしょうか?
皇族と学習院 李 方子
1901年
父 梨本宮守正と伊都子(いつこ)の間に生まれる。
梨本宮は皇族の一つ。父は親王の4男でした。
家柄が良く、皇太子の裕仁親王(後の昭和天皇)と年齢が近かったこともあり、皇太子妃候補でした。
1916年 16歳学習院女学部 中等科に在籍中
まだうら若き楽しい青春真っ盛りの方子
結婚と朝鮮王朝
いきなりここで衝撃的な出来事が…!
方子は避暑のため別荘に滞在。
当時メディアは今のように多様に発達してるわけではない。なので世間の注目や情報は新聞が多かったんですね。
たまたま手に取った新聞を取ってみたら、
そんな記事に、
え?自分の婚約が載っている…。
うそでしょ
自分の結婚を報道で知った16歳の夏!!!!!!!!!!!!!
では大韓帝国の当時の状況は?
大韓帝国が日本に併合されたことで国として主権を失っている状態。
王族として李王家が作られ、日本により身分保証されてました。
結婚は植民地となった韓国の反感を和らげようとする政略結婚でした。
ちょっと複雑な歴史背景ですね。
李 垠の父 高宗(コジュン)が死去した事で遅れましたが、
1920年 20歳方子と李 垠の結婚が成立
1921年 21歳長男が生まれるも病死
10年後には次男が誕生
李 垠は陸軍大学校を経て軍人となり、方子はよく夫を理解して支えていました。
子どもを育て、夫を支えて、家庭も守良き奥様ですね!
貧乏と福祉に
1945年 45歳 終戦を迎えると
李 垠は王後続の身分を失い、李 垠は韓国への帰国を望みます。しかし新しく生まれ変わった韓国では王家の影響を疑う声が…。
方子達の帰国は歓迎されない。
1963年 63歳 韓国の帰国に認可が下りて渡ります
この時に国籍を韓国籍にして、帰化します。
方子は韓国では遅れていた心身障害児の教育や社会福祉事業に尽力し、事業団体や慈恵学校と心身障害施設 「明輝園」を経営。
その功績で勲章が贈られます。
1970年 70歳 李 垠が他界
方子は日本には残らず韓国に残り、社会福祉に生きます。
波乱万丈だった李方子の人生もついに…。
1989年 89歳で方子 死去
李方子の生き方から学ぶ
皇族として一般的な女性とは全く違う状況で結婚。拒否権や本人の希望といったものはほぼ無くて、「結婚決定だから」そのまま嫁ぐしかない時代背景でした。そんな中で、夫の国に行っても冷たい目で見られたり、王族だけど資産もなくなり、生活が苦しくなるというプリンセスとしてあるまじきような出来事や苦難に遭います。そんな自分たちの経験から、福祉に目覚めたのでしょうか?
韓国にて福祉事業に尽力します。夫が亡くなってからも祖国とは違う土地で生き抜き、福祉に人に貢献したプリンセス。李方子だから出来た貫けたのかと思います。
李方子が亡くなったのはほんの30年前くらい。現在の日本と韓国に関する報道やニュースで不毛な議論がほとんどで見ていて悲しくなってしまいます。
もっと見ていて気持ちがよくなり、進歩的な、明るいニュースが今後増えるといいなと思います。
天国にいる李方子は今、どんな気持ちで日本と韓国を見ているのでしょうか?
ではでは
ちゃおちゃお
参考文献:お姫様図鑑/金の星社/ブレインナビ