静御前  源義経に愛され 身籠りつつ敵の前で踊った美人白拍子

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読んでほしい人

▷愛を貫きたい人
▷スキルのある美人に興味がある
▷悲劇的な人生に興味がある人

静御前

一体どんな人生だったんでしょうか?

源義経に愛された静御前とは?

讃岐(現在の香川)小磯で生まれ

母 磯禅師(いそのぜんじ)京都で有名な白拍子
容姿端麗で歌や舞に優れてます!

白拍子とは烏帽子、刀をつける男装
今様(いまよう)と呼ばれ、流行歌を歌いながら舞う女性芸人

平安時代の末期に大流行

後白河法皇のもとへ出入りするうちに、源義経と出会い愛されるように

義経は西国に出兵。平氏追討の戦いで大活躍中

  • 一ノ谷の戦い
  •  屋島の戦い
  •  壇ノ浦の戦い   などなど

後白河法皇から勝手に官位を受けたことなどから義経は兄の頼朝と不仲に…。

源頼朝から攻められる義経と静御前

1185年 10月 頼朝の名を受けた土佐坊昌俊(とさのぼうまさとし)は義経を夜襲計画をはかります。
それを早く知った静御前は機転を利かせて、義経を吉野へと落ち延びることに成功。

やった!やった!とりあえず生き延びた!さて早く逃げなきゃ!

11月 静御前に弁慶などの義経一行は九州に向かおうとしていると

  • 大物浜(尼崎市)から船に乗り込むも、嵐で転覆
  • 義経はたくさんの仲間と資産がなくなる

そこでこれ以上、静御前がいては危険があるばかり…。
当面の生活費以上の金品と雑色(下男)を連れて、義経は都に戻るように言います。

義経だってそりゃあ最後まで一緒に居たいけど、愛する静御前をそんな目に遭わすのは嫌だとおもったのでしょう。義経、男気ありすぎるよ!

ここで静御前と別れ、義経は京都へ戻るとき、北条時政に捕らえられてしまいます。母とともに鎌倉に送られるんですね。

一方静御前は?『吾妻鏡』からの彼女の証言

ボディガードの下男たちは裏切り、財宝だけをとり、吉野山に彼女を一人で放置。

静御前も鎌倉に着くや否や、義経の行方に関して尋問され続けます。
何も語らずに突き通す…。

黙秘です…!!!!!!!!!!!!!!!!

鎌倉には白拍子で有名な静御前の舞を見たいというファンが…。

頼朝は静御前に命令
「鶴岡八幡宮の神前で舞を見せろ」
北条政子や幕府の重心が集まる中
静御前は義経を慕う歌を披露。

頼朝は静御前にモーレツに怒ります。
でも他の人からは義経への一途な思いに打たれて涙が出るとの感想が。

頼朝の奥さんの政子はそんな夫頼朝に

「私お気持ちは今の静御前と同じです。もし彼女が義経の長年の愛を忘れたように舞うならば、それは女の道に背く行いでしょうか。」

という心の広い寛容な政子様

言ってませんでしたが…….

鎌倉に着いた時は、静御前は義経の子を妊娠してました。
頼朝は腹を割いて子を殺そうとしますが、梶原景時(かじはらかげとき)に止められ、子どもが女の子だったら命を助けるということを約束に取り付けます。

しかし男の子でした。
静御前は子どもを渡そうとせず、4~5時間泣き叫ぶ静御前
そして静御前が疲れて力が入らなくなったとこで赤ちゃんは取り上げられて、由比ヶ浜(ゆいがはま)に沈められます。

政子のとりなしで放免され、鎌倉を離れたて京都に向かう。
その後の公式記録は不明

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静御前の生き方から学ぶ

ただ好きになった人がいつのまにか朝敵になってしまった。こんなことってあるんでしょうか。私たちが普通に生きててそんなことってほぼないでしょう。でも出会ったことがまるで悲しみの始まりさえ感じさせるカップルです。ある意味こんなに人生をかけてまで人を愛せること自体がほぼ奇跡だと思います。しかも好きな人の子供を自分が弱りながら殺される。公式の記録がないだけで、その恐ろしさ無念さははかりしれません。みなさんならどんな愛の形を貫き通しますか?

ではでは
ちゃおちゃお

参考文献:乙女の日本史/堀江弘樹.滝乃みわこ/角川文庫

お姫様図鑑/ブレインナビ/金の星社