キュリー夫人ノーベル賞2度受賞した努力の女性科学者

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どーもそんべんです!
平成の夏もあと少しで終わろうとしている…。
お盆後って一気に時間の流れが加速して終わっていくような気がします。
今回もご紹介します!

読んでほしい人

▷反骨精神が強い人
▷結果が出なくて悩んでる
▷周りに男子ばっかりの環境

リケジョという言葉が出てもう定着していますが、そんな歴史のリケジョを
見てみましょう!

キュリー夫人の生涯とは?

1867年 11月7日誕生
マリア・スクロドフスカというのがキュリー夫人のお名前なんですね!
生まれたところはポーランドのワルシャワ

キュリー夫人の父が数学と物理学の先生
キュリー夫人の母が学校の校長
しかも自宅が学校で生徒のお世話をするのが日常の家庭で育つのです。

愛情も教養もある両親や姉3人と兄たちと楽しく過ごした幼少期です
いいですね!こんな調子で続いていけばいいなあ


ところが辛いことが…

1876年 9歳 姉がチフスで死去
姉は13歳という若さ…

1878年 11歳 母が結核で死去

大切な家族が天国に召されてしまうんですね
キュリー夫人は長い時間がこの傷を癒すのに必要でした。

更に言うとこの時代というのはポーランドはロシアに支配される
学校ではポーランドの文化、歴史、言葉などなど学ぶことが禁止

そんなポーランドでは支配されるのではなく独立したいと行動に移す人が出てきます。
しかし警察当局に捕まる…。
慰め方が分からなくなる少女期を送るんですね…。

キュリー夫人の学校生活はどうだったのか?
優秀の一言。ほんとに優秀。先生も覚えてるくらい優秀。
2年進んでるほど優秀
1883年 16歳 女学校を卒業
やっぱ優秀なので金メダル受賞

そして1年間リフレッシュ休暇
ポーランドの田舎で過ごすんですね
ブランコしたり、釣りをしたり…。
私も混ざってブランコしたいですけど!

そしてその休暇も終わり、自分で食べていく道を探さねばなりません。
16、17という年齢。
今だったら学校行って遊んでという感じですがキュリー夫人は働きました。
家庭教師をするんですね。

キュリー夫人だったらもっと勉強すればもっと可能性広がるのに…。
と思うんですが…。
しかしこの時代のポーランド情勢からいうと外国に行かないと勉強ができませんでした。
キュリー夫人の姉もキュリー夫人もまずお金を貯めようということに
そしてなかなか貯まらない…
ここで二人は作戦変更

1885年 18歳 姉がパリ留学
姉が先に留学
キュリー夫人は後から行く計画へ変更

1886年19歳 住み込みの家庭教師
頼まれた人の勉強だけでなく、自分の勉強時間も確保しないといけないので
した。

そんな生活が1年、2年、3年…と続きます。
私いつになれば自分の夢が実現できるんだろう…
本当に来るのかな…
私だったらこんなに数年も待てないな…
てかお姉ちゃん私のこと忘れてないかな…
あっちで楽しくやりたいことやってるんだろうなあという感じです。
見えない光ををひたすら探して待っているかのようです。

1890年23歳姉が医者となり、カジミールと結婚
そしてその光が…!
1891年24歳パリへ行き姉の家に同居
お姉ちゃん信じててよかったー!呼び寄せてくれたー!!
とキュリー夫人の夢の一歩が!
制限のない自由なパリが…!
ソルボンヌ大学(現パリ大学)物理学部に入学

良かったね!と言いたいんですよ…
しかし
パリでも大変なんですよね

十分だと思っていたフランス語が講義だとわからない!
しかも独学でやってた化学も他の人以下!

普通だったらここであきらめたり、ぐれるのが凡人です。
凹んで、遊びに出かけるんですが
キュリー夫人のハングリー精神をなめてはいけません。
もう、ほんとに努力します

通学で2時間…
一人暮らし始めます、貧乏ですが
ご飯はお茶、りんご、バターでしのぐことも
どこでも徒歩
とまだまだ努力エピソードは止まりません。
これ見ると自分、キュリー夫人に頭上がりません!!!

1893年25歳トップの成績で物理学の学士号をとる
もう、すごすぎでしょ!男子たくさんいますよ!
しかもソルボンヌ大学って優秀な大学ですよ!

まずこのエピソードだけで映画化さえてもおかしくない!
というか見たいです!!!!

キュリー夫人の夫と出会う

1894年(27)物理学者ピエールキュリーに会う
ちなみにピエールは
出会いは友達の家

持つべきものは結婚のきっかけを作ってくれそうな友達です…!

1895年(28)ピエールキュリーと結婚
ここでやっとキュリー夫人になるんですね!

夫婦生活も順調でほんとに二人は気の合う仲間というほうが正しいかもしれません。
とにかく何をするにも二人でともにしていたとのことです。
ささやかでシンプルな愛にあふれた結婚生活
なんだか映画を見ているようです!

1897年(30)長女イレーヌ誕生
ちなみにこのイレーヌも歴史に名を遺す偉大な科学者になるんですね。
この時点でのポテンシャル高すぎです!

キュリー夫人の仕事の話に戻ると科学の新しい切り口になる
研究課題を見つけようとしてました。
それが放射線や放射能物質に関することでした。

1898年(31)鉱物ピッチブレンドに含まれている放射性元素のひとつを発見
祖国ポーランドにちなみポロニウムと名付ける
そしてもう一つの放射性元素ラジウムを発見

1900年(33)
純粋なラジウムを取り出すことに成功

さらっと一言で書いていますが、このプロセスがめちゃめちゃ
大変だったんですよね。
実験場所はよくない
このピッチブレンドから元素を取り出すのは本当に重労働
失敗したり始めからやり直しとか
果てしない、いつ取り出せるかわからないまま作業を4年続ける…。

とにかく読んでいてどんだけ強い精神をこの夫婦は持っているんだという
感想しか出てきません!

1903年(36)ラジウム研究でソルボンヌ大学により女性で初めて博士号うける
夫とともに「放射能の研究」でノーベル物理学賞を受賞

でたー!ノーベル賞!
でもこの時のノーベル賞は今とは違います。
創られたばかりで賞金は多いが認知度低かったんです。

むしろキュリー夫人がなにか見つけたぞ!というより
恵まれているとは到底言えない研究所で夫婦が何かすごい発見したぞ!
ということでここからむしろノーベル賞が注目されていくきっかけになったといえます。


1904年(37)夫ピエールがソルボンヌ大学理学教授に任命
次女エーブ誕生

家庭も順調だし、研究も順調…
なんだかんだ恵まれてるじゃないですか…!と思ってたら

1906年(39)ピエールが
荷馬車にひかれて急死

なんてこった…!
なんだこの展開!
でもピエールは研究で多くの放射能を浴びていたので
馬車にひかれなくても発病し老い先長くはなかったのではないかという見解。

せっかく教授になったのに…。
後任の人はだれか…。もうあの人しかいない!
キュリー夫人!

ソルボンヌ大学物理学講師になる
初の女性教授

キュリー夫人はほんとに科学や大学の女性パイオニアですね!!

1911年(44)「ラジウム及びポロニウムの発見による科学の進歩への貢献とラジウムの性質におよび化合物の研究」で二度目のノーベル賞受賞

キュリー夫人の娘や子孫

あまり知られてはいませんが夫の死後
キュリー夫人は年下の男性と恋に落ちるんですね。
夫に才能を見出されて研究者になりました。
しかしこの男性には奥さんがいて、この関係に気づいた奥さんが騒ぐんです
そりゃマスコミ飛びつくんですよね…!

そんなマスコミが取り巻く中、毅然とした態度で臨む授賞式。
正々堂々としすぎてすごすぎです!

2人は結局破局。
でもほんとに人ってどこでつながってるかわかんなくて、
むしろDNAが騒いだのか分かりませんが、
お互いの孫が結婚に至ったとのことです。

キュリー夫人の家族や子孫を調べていくとほんと面白いです!
大いに脱線しましょう!

1913年 47歳 第一次世界大戦始まる
移動式X線装置をもって娘のイレーヌとともに各地の野戦病院を巡回する

ここでも誰かの役に立ちたいという思いが強く
キュリー夫人はX線の知識はあっても装置を使うというのはまた別の問題でした
ここでも解剖学を学んだり、車の運転覚えたり、整備まで出来るようになったり
ノーベル賞2回も受賞してたら、もう別に勉強しなくて、自己啓発しなくて
よくないか?と思ってしまうのが凡人!
キュリー夫人は勉強して行動するんです!!!

そこらへんの変な自己啓発本読むより
キュリー夫人の人生知ったほうが100倍役に立つ!

1920年 54歳 アメリカの新聞記者マリーメロニー夫人の呼びかけによって
アメリカ旅行実現
けどこれただアメリカ旅行にいきたいというかラジウムがらみの話なんですね!

自分で見つけたラジウムですが、値段が高くてラジウムが買えない!
そんな馬鹿な!!
と突っ込みたくなるんですがほんとなんですね

なのでお金を募るため、マリーメロニー夫人はキュリー夫人を招待して
アメリカがラジウムをくれるはずと言われるんですね。
そして実際にもらいます!
良かったね!

1926年 59歳 教え子が長女と結婚
おおおー!この夫婦がまた世界を変えていくんですよね!

長年の研究が身体をむしばむようになっていきます
1934年 66歳 放射線障害で死去

関連書籍☆彡

キュリー夫人の生き方から学ぶ

キュリー夫人が生きていたころは今よりもさらに男性が権力を持つ世界でした
今でこそたくさんの女性が大学に通える男女共学の時代ですが
そんな時代が来たのも先人がいたからなんですよね。
キュリー夫人の場合はまず幼少期で辛すぎる家族との永遠の別れ、
愛する夫とも死別。
キュリー夫人がこれだけ研究に打ち込んだのも神を信じられなかったともいわれます。
確かに普通に真面目に生きてるだけなのになんでこんな仕打ちなんだろう。
ってそりゃなりますよね。

そして貧乏生活も。
というよりキュリー夫人の一生全体通して質素な生活なんですよね。
私だったら特許とって、利益出るようにしたいな~、超豪華な生活を送りたいなとか思うけど。なんと私は俗的な考えなんだ…!

キュリー夫人は人類のためにということで儲けるチャンスを放棄するんですね。
しかも自分で発見した放射性物質が高すぎて購入できなくて、研究できないという…。ツッコミどころもありますが。

研究して自分の成果をだして、家族がいて、旦那も子供もいて
一言でいえば満たされてるように感じますが
もともと頭がいいからという理由だけではなくて
私が想像しえないほどの努力とハングリー精神だからこそ、どんな劣悪な状況でも、どんな屈辱を受けても、くやしさをばねにして
世界を変えることが出来た女性なんだと思います。

キュリー夫人の伝記を読むとほんと自分は努力をしらないんじゃないかという
レベルで圧倒されます。

最期にキュリー夫人の考える科学者とは?

自然の秘密と美しさを探し求めるおとぎの国の旅人であり、それはたいへん面白く、夢のある楽しい仕事です。

ではでは
ちゃおちゃお🐾

参考文献:キュリー夫人/ビバリーバーチ著作/偕成社
世界を変えた10人の女性/池上彰/文藝春秋