知里幸恵 アイヌ文化を残した誇り高き北海道出身19歳の才女

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読んでほしい人
▷アイヌ文化を知りたい人
▷10代で活躍したい人
▷地道に輝きたい人

知里幸恵

一体どんな人生だったんでしょうか?

知里幸恵 アイヌ人として生まれて

1903年 6月8日 北海道幌(ほろ)別郡(現登別市で生まれる)
1909年 6歳 祖母モナシノウクと共に旭川町近文に住む叔母の金成マツと暮らし始める
アイヌ出身のご家族とのことです。

1910年 7歳 上川第三尋常小学校に入学
1916年 13歳 上川第三尋常高等学校へ入学

楽しい学生生活になるといいねと思いたいんですが……

アイヌ民族出身の学生はわずかで馬鹿にされます。
やはり少数派はいつの時代もどこに行っても辛いのですね。

1917年 14歳 旭川区立女子職業学校に入学
そして優秀な成績を修めます。
4/109位の成績です!!!!!
賢すぎる!優秀すぎる!見習わなきゃ、というか勉強教えてほしい!

しかしここでもアイヌであることを馬鹿にされます。

人間の本質ってとりあえず少数派をいじめるように出来てるのでしょうか。
なんだか悲しくなってきますね。

国語辞典の神 金田一京助と出会う

1918年 15歳 マツの近ふみ伝道師にアイヌ学者 金田一京助が訪ねてきます。

1920年 17歳 女子職業学校卒業
近文の病院で気管支カタルと診断されます。

そして金田一京助の薦めで送られたノートにユカラを書き始めるのです。
アイヌは文字がないので書き留めたい。
アイヌの人たちは文字がないおかげでしょうか?
めちゃめちゃ記憶力がいいです!!!!!!

たしかに文字があるから記憶しなくてもいいやとなってしまうかも。
またアイヌ語は動詞に複数形があってこれも珍しいとのこと

1921年18歳 第一のノート『アイヌ伝説集』のノートを金田一京助に渡す
ちなみに金田一先生はどうやら声がかなり高かったとのこと…。

そして第二冊目 民俗学者の柳田国男が編集する『炉辺業書』の1冊として幸恵のノートを本にしたいとする手紙が来ます。

そんな真面目で勉強家の千里幸恵は恋をしなかったんでしょうか?

名寄からきたアイヌの青年 村井宗一郎と出会う。
京助の家で学びつつ、『アイヌ神謡集』の原稿の手直しする。

1922年 19歳 早春 村井と婚約
仮祝詞をあげました。

5月 東京 上野へ行き金田一家で生活を
7月 体調が悪くなる
9月18日 アイヌ神謡集の校正終了した夜に心不全で死去

知里幸恵の死後と現在

1869年 明治政府 アイヌモシリ(アイヌの住む地)蝦夷地を北海道として北海道開拓地を設置
1876年 札幌農学校OPEN アイヌの呼称→旧土人と定める
1946年 北海道アイヌ協会設立
1997年 アイヌ文化振興法公布

アイヌ語の地名はその地の場所の特徴を表してます
例:知床(シレトク)→大地の果て
樺太(カムイカラフト)→神が作った島
札幌(サッポロベッ)→乾いた大きな川

アイヌとはそもその人間という意味 神様(カムイ)に対して自分たちをアイヌと呼んでいるとのこと。

自然の名で自分たちの文化を築いてました。本州からシサム(和人)が入るようになる。
シサム(和人)と区別するために彼らは自身をアイヌと呼ぶように。

ユカラ(英雄の叙事詩、)カムイユカラ(神の叙事詩)、ウウエペケレ(昔話)など
そしてアイヌの女性はは成長すると口の周囲や手に入れ墨をする文化があります。

関連書籍☆彡

知里幸恵の生き方から学ぶ

千里幸恵は19歳という若さで彼女はこの世を去ります。彼女の短すぎる人生を見るとアイヌ出身ということで差別され、頑張っても違う目で見られて過ごしていたのかと思います。今であればいじめはダメ、差別はダメということで少しはマシかもしれません。でも知里幸恵が生きた時代はいじめから差別から守ってくれるような時代ではありません。あくまで本州からの和人が上、少数派はさげすまれる時代です。そんな中で自分のアイデンティティーを確立させ、後世に残す大事業を知里幸恵は行ってます。短い人生の中で勉強だけでなく、儚いですが恋もして過ごせたことはせめてもの彼女の青春と呼べるのでしょうか?

ではでは
ちゃおちゃお

参考文献:知里幸恵とアイヌ/漫画ひきの真二/小学館